事情が発生し、急遽帰省した今年のGW。PCR検査も陰性と結果を受けて行ってきたわけですが、その間に「人吉に用事がある」という身内に同行し、昨年6月末から7月頭にかけて発生した球磨川の氾濫のその後の様子を初めて目の当たりにしてきました。
状況が状況ゆえにこの記事を書くか書くまいか悩みましたが、考えてみれば私自身が普賢岳の火砕流による降灰被害(肩に5㎝積もりました)、一時期関西に居た際に受けた阪神淡路大震災(隣の木造アパートがケーブルカーのようになりました)、そして帰宅に9時間掛かった東日本大震災と実家の熊本地震(建て替えました)。直接では無いものの過去にいくつかの自然災害に直面していたことを思い出し、加えて災害の生の様子や現状を伝える方法はマスコミだけにあらずという事でここに記すことにしました。
いわゆる見たままである事と、痛々しい様子も出てきます事、そして行くに当たっては十二分に感染対策をしてということをご理解いただきたく思います。
九州自動車道を南下し、人吉までは高速で。八代IC~人吉IC間はその豪雨被害により一般道は分断されているため無料通行の特別扱い。ただし、例として福岡~人吉など「乗り通し」だとその限りにありません。当日の天気は黄砂の影響か空が白~黄色っぽくなっていますが、雨とは無縁で人吉へ順調に到着。この先、八代方面へ川を下る形です。
しばらくは被害の様子の見られない道を走りますが、やがて川が近くなってくる地区になってくると様子が変わりました。
JR九州、肥薩線の渡駅。現在は肥薩線自体の復旧目途は立たず。
屋根瓦が荒れていますが、駅舎の高さ半分まで水に浸かったそうです。
上の写真の右側に見える公民館?
入り口は当時の様が生々しく。
壁こそ白く見えますが、完全に水没していた様が見えました。
渡駅のホーム。
緑こそ青々と息吹を戻していますが、人工物は全て荒れたまま。
高台に海上コンテナのようなトレーラーハウスが並んでいましたが、元の町は・・・
ご覧の通り。
平屋どころか奥に見える3階建ての建物でさえ3階の窓はなく、その氾濫の様は想像以上です。
写真は踏切に立っての撮影ですが、警報機も流れでなぎ倒されたままでした。
実は一般に立ち入ることができないのですが、その先は関係者と同行です。
ゆえにあまり公となっていないであろう光景も。
人吉から八代間にあった22の橋、そのうち10の橋が被害に遭い、付近では唯一残っていたという橋を渡ります。
その名も球磨橋。
欄干は当時の被害を受けたまま使用中。流木も残っていました。
眼下に見える球磨川の水面から、この高さまで水が襲ってきたとは・・。
川辺を走り、時に風光明媚な様子を魅せる肥薩線。
あっという間に水に吞まれてしまいました。
とはいえ1908(明治41)年開通の肥薩線。開業当時は鹿児島本線として100年以上の歴史を持つこの路線、土砂崩れはあってもそうそう線路が流される事態にはなりませんでした。
この状態が1年近くも?と最初は疑問に思いましたが、あとあと見れる道路被害は多数。重機も簡単に持ち込めない様子が分かりました。
さて、目的地は林道を上ること1時間。
本来の道は復旧工事中でう回し、途中スカイツリーよりも高いところを走りました。落石ゴロゴロ、崖崩れで崖のフチもところどころ・・となった道を進みます。
着いたところは標高500mほどの小さな集落。
長い時間ではありませんが、その集落も見てみます。
集落ができた頃からあるんでしょう。
映画やアニメに出てきそうな、小さくても存在感のあるお堂が佇んでいました。
しかし、そのお堂を背にすると・・
こんな山奥にどうしてこんな土砂が?と信じられない光景が。
人が住んでいる気配・・・無くはなさそうですが、誰一人出会いません。おそらく当時は孤立集落の一つ、先のお堂が守ったようにしか思えません。
その集落の小学校だった建物。
キャンプ場として活用していたそうですが・・・
校庭だったであろう場所、校舎もろとも土砂に埋もれています。
復旧なんて言葉には程遠い。そう感じざるを得なく、もう1年なのかまだ1年なのか、どうしてこんななのか。
「どうして」の謎は、この集落の上にある山の様子が答えを出しました。林道から見える風景、木が伐採され山肌が露わに。そんな場所から土砂崩れが起きているところがあちらこちらに。
山奥の集落、人々が生活するためには「木」が必要であろうことは容易に想像できますが、必要とした木が、山を、集落を、人を守っていた。それが突然の線状降水帯により想像できないほどの雨が降ったことでの出来事ですから、なんとも難しい・・。
加えてこの「コロナ禍」が復旧の人出を阻んでいるとか。なんてことだ・・。
そんな水量が一気に山を伝い球磨川へ。
こちらも山を下り川辺を走る。
神瀬(こうのせ)橋
現在復旧工事中ですが、橋脚は根こそぎ倒されたままで当時を伝えていました。
水面からどれを程の高さに線路があるのか。
この先、水力発電所のダムもあるのでその水深を考慮したとしてもです。
吉尾駅
この先にあるダムが解放状態なので、ダム建設時に水没したという橋の橋脚も露わに。
恐らく岸壁の色の違う部分がダムで溜められていた水の位置と思われます。
撮影したときは気づきませんでしたが、倒れた橋脚の近くに車がひっくり返っています。
「手つかず」
これ以外の言葉は見つかりません。
そしてそのダム。
J-POWERの水力発電所、瀬戸石ダム
当時(2020/7/4)未明に緊急放流による全開放。
その動力など機器自体も水没し再稼働不能。ダムとしての機能は失われたままです。
至る所で道路の復旧工事中。
工事車両しか走らないため道は空いていますが、予断を許さないその様子。
現に早くも梅雨入りしている現地、既に土砂崩れ発生中です。
いくつかの集落を通り過ぎ、一つの集落へ。
立派なお家ですが、1階部分が水没。おそらく当時は周囲にも家屋があったと思われますがご覧の通り更地です。
この位置から見える光景が
球磨川第一橋梁。
肥薩線開業時より存在した、歴史ある鉄橋。その今の姿。
当時流された橋や橋脚は撤去もされていますが、引っかかった流木はそのまま残っていました。
水面からどれだけの高さが・・。
道路上で近寄ってみます。
橋脚は煉瓦と切石積み。
100年を超える歴史の橋が、大量の雨で橋脚1つとその上に掛かる橋を呑み込みました。
「津波のようだった」と表現する目撃者も居ると聞きます。その通りでしょう。
大きな橋でさえですから、沢に掛かるような橋なんて。
行徳谷橋梁。
文字通りの谷に位置するその橋。先の山奥の土砂崩れをいくつも一手に受けた沢は雪崩とも言えるほどの状況じゃなかったのではないでしょうか。
この橋の隣にはトンネル。
煉瓦造りのポータルがこの路線の歴史。
酷い有様です。
さて、もうじき下流の八代へ。
先ほどの瀬戸石ダムからのお知らせ。
全てが故障中。これからまた雨が多くなる季節が続きます。どうか新たな被害が起きませんように。
戻ってきたころには夕焼けが。
コロナ禍の折、復旧も進まず毎日が過ぎる。
けど、少しでも進まないと復旧しない。復旧工事に携わる方のご苦労は必ず実を結びますから、その日が一日でも早く訪れるように願いを込めたいと思います。
SL人吉号も走る場所を失って臨時運転中。
いつになったら戻れるのか。
自然災害はいつどこで起きるか分かりません。危機感をどれだけ感じれるか、緊急事態宣言下と言いつつ世間の気のゆるみも感じる昨今。気を付けたいと思います。
長文となりましたが以上で見たままレポ完了。最後までご覧いただき、ありがとうございました。